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山名幼稚園 園長ブログ

2014年からリニューアルして静岡県袋井市にある山名幼稚園の園長ブログとなりました。園長の園外活動を織り交ぜながら、その時々で思うことをつづっています。。

6月エッセイの裏話「おじさんたちの反省会」



このエッセイは、たまたま隣の席から聞こえてきた「おじさんたちの反省」をきっかけに私が想像する男性と女性がお互いに抱える「どうしようもないこと」をどう受け止めるか、それぞれが考える材料として書きました。

「どうしようもないこと」とは、過ぎ去った過去の事、女性であること、男性であること。
女性性、男性性を語ることは誤解や偏見も生じやすいので避けがちなテーマですが、天理教では女は火の理、男は水の理とそれぞれの性質を説き分けています。

火と水と聞いて、どう思われるでしょうか?
性質の違う相容れないものであるとともに、創造の源とも言えると思います。
火と水は生命の源であり、エネルギーを生み出すものです。
創造的な働きを担っている者同士というのが女性と男性と言えるのではないかと思います。
すが、現実生活は、女性と男性の間には、思いのくい違いや、理解しがたいことがさまざまに起こりがちです。
その違いの中で、創造的な働きというポジティブな面を見失って、相容れない断絶が起こることがしばしばあります。

そういった「どうしようもないこと」に先人は過去、いろいろと折り合いをつけてきたと思います。
その折り合いのつけ方に、果たしてそれでよかったのか?と思うことがいろいろと浮かびます。

例えば、男性の自由な行動に対して、女性は目をつむり黙って受け入れる。
男性を立てることを優先するあまり、自分の本心や言葉を隠す、あるいは神経質に気をつかう。
究極には、女性がバカなふりをして男性の優位性を保つなど。
折り合いをつけてきたのは、女性側の方である場合が断然多かったと思います。特にこの近代の日本では。

私の祖母もそのような対応を祖父に対してしていました。
暴力的なことや、わがままが繰り返されても、受け入れていた不思議な関係⁇
このエッセイは3月には書ききっていたのですが、奇しくも、今年の4月、東大の入学式の祝辞で、上野千鶴子さんが「意欲の冷却効果」という表現で、女性の意欲を失わせる男性の対応について語っておられました。
まだ読んでいない方は、検索して読んでみて下さい。
冷却という言葉がすごくマッチしていて、この方スゴイなあと思いました。
女性の意欲は火に例えられるので、火の冷却は、まさに水によってなされるわけです。
男性のネガティヴな言葉や態度は、水をかけるように女性の意欲の火を消してしまうのでしょう。

男性側から考えてみたいと思います。
私がよく聞く男性からのお話で、「女性は言葉に長けているから、その言葉数によって男性が萎縮してしまうのだ、だから言葉はほどほどに」とおっしゃっていました。
また、「火である女性が水である男性をあたためれば蒸気機関車のように男性はがんばれる」というお話も聞きました。
火加減と火の活かし方について話しておられるのだな、と私は思いました。

どちらの話も、本質は男性のための女性ということですね。
これまでの男女の関係性はこういう本質だったのだと思います。
本来は、女性と男性は創造的な働きができる五分五分の間柄であるにもかかわらず、生かし合う行動でないことが多かったのかもしれません。

エッセイの最後には、ベビーカーに赤ちゃんを乗せた男性が喫茶店で緊張の面持ちでお茶をしているところに出くわしたことを書きました。
男性もしっかり子守をするようにと伝えたいわけではありません。

実は、昭和の男性が経験することなく終えた男性の子育て参加が今何を生み出しているかという背景も伝えたかったので書きました。
子育てに向き合うと、人は学ぼうとするのです。
子どもの育ちについて、これからの子どもたちの行く先の環境について。
小さな子どもたちと女性も男性も向き合うことで、これからのことを学ぼうとするのです。
近年開催した夜の教育講演会にはたくさんの父親の皆さんが参加されました。
この園のお父さんは、子育てに関わっている証拠と思いました。
子どもこそ創造的な働きの賜物と思います。

女性が失望しないような関係性。
男性が萎縮しないような関係性。
どちらも必要です。

昭和のおじさんたちは反省しています。
おじさんたちの姿を見て育った世代の方は、知らず知らずに同じような思考や行動が出てしまうことがあります。
そんな時は、火と水の関係性を考え、風の存在を探して下さい。

風は、火の勢い、水の流れを変えます。

残念ながら、火が消えてから、水が蒸発してしまってからでは取り戻せません。
男性はよく「人間なんだから頭で考えて論理的に解決を」というようなことを女性に求めます。
ですが、一度消えた火は再びつくことがないという不条理も抱えているのが女性です。
その証拠に、別れた恋人に対して未練のカケラもないような女性の話は数知れずです。

風はだいぶ変わってきました。
昭和の風は吹いていません。
令和の風が吹いています。
最先端という言葉を昭和世代の私たちは使いがちだと思いますが、今の20代以下の方々にとっては、それは「ナウ」今でしかないのです。
今を受け入れることで見える良き未来もあると思います。





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3月 エッセイの裏話「出会いを楽しむ人生の旅」




年が明けてからずっと休みのないような日を送っていますが、なぜか元気です!
でもさすがに、今日は栄養ドリンクを久々に飲み、年度末につきエネルギーチャージをしました。
本当は、栄養ドリンクではダメですよね、よく眠ることが大事です。

さて、今回のエッセイですが、年配の皆さんからの開口1番の感想は「よくヒッチハイカーを乗せたよね⁈」です。
そこですか?笑
という感じですが、いい子達だったんで乗せました。

若い方々からは、
「元気出た」
「スカッとした」
などです、笑

同世代からは、
「ソフトに攻めてきましたね。
ああいう文章好きです」
というのもありました。笑

彼らのエピソードは、ロードムービーのようで面白かったのですが、エッセイでは伝えきれていません。
ですが、私が思ったのは、自分の20代の頃、本当に色々な人にお世話になり人生勉強を濃くさせていただいたということ。
多趣味で色々なところに学生というパスポートを利用して潜り込みました。
ちょっとアウトローな稼業の人たちとも関わり、人間なんとかなるもんだなと学んだり、どこでも生きていけるかなという変な自信がついたり。
そんな経験をできたのがちょうどこのヒッチハイカーの彼らの年代だったなーと思い出したのでした。

幼児と向き合っていると、無邪気さの強さと危うさを感じます。無邪気であることは、あらゆる可能性の扉を叩くことができる強みでもあります。
危うさは、無邪気さゆえの事故もありうるということ。
冒険には必ずそういうリスクはつきものです。
私はちょっとのケガはつきもの、かすり傷ひとつないことが素晴らしいとも言えないと思っています。

そういうわけで、私の若かりし頃、お世話になった方たちへの小さな恩返しでもありました。

次回6月発行のエッセイでは、「おじさんたちの反省会」をもとに書いているところです。
果たしてうまく伝わるか?冒険してみます。



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「前向きに受けとめる力」



無敵な生き方があるとしたら、誰かに「こっちは通っちゃダメ!」って、とうせんぼされても
「いいもん!こっちにいくもん」って
さっさと違う方向に歩いて行っちゃう子なんじゃないかと思います。

いやいや、そこでとうせんぼしている子と向き合うのも大事でしょ、という意見もあるかと思います。
でも、とうせんぼしている子と向き合ってたら、大事な遊びの時間がとうせんぼしている子に消耗させられてしまうわけです。
私は、そういうのが嫌なので、とっとと他の遊びを見つけつつ、新しい友達と遊ぶか、一人でも遊べます。
あとで、とうせんぼした子がいなくなった頃、すかさずそっちもしっかりゲットしたりもします。

最近思うのは、とうせんぼしたりする子の言葉に傷ついちゃって、動けなくなっている人が多いということです。
「どうしてあんなこと言うんだろ?」
「私のこと嫌いなのかな?」
「私ひとりぼっちじゃん」
と、どんどん落ち込んで沼地から足が抜けなくなっているような人がいることに、そんな時間がもったいないなあと思うのと、邪魔する人間の術中にはまっていますよって言ってあげたいと思うのです。

マイナスなことが起こるには、いろいろ過去に作った原因や反省すべきこともあるかもしれません。
それでも、そうなったからにはどういう次の道を進むか?早急に見つけて進むことで、未来が開けます。

反省会を長く開いている人がたまにいますが、あまり役に立たない場合の方が多いのではないかと思います。

また、人から中傷を受けても自分の正義がなんなのかはっきりしている人は傷にもならないものです。

マイナスなこと、予定が外れる、つぶされる、そういったことがあっても果敢にその壁に立ち向かって行く生き方ももちろんありなのですが、神様はもしや、違うものを用意してくださっているのでは?という気づきも大事だと思うのです。

今日もまた、思わぬ予定変更があり、こんなことならゆっくりくればよかったなあと一瞬思いましたが、その空いた時間にぶらっと出かけて、偶然おもしろいものに出会って来ました。

「月の誕生石」
ここから月が生まれたという伝説の石!
そんなの聞いたことないって?
私も初耳。
まあ、検索かければすぐ見つかると思いますので。

偶然にも、今日は新月。
月がこれから生まれる。
月について思いをめぐらし、新月にお願い事をするといいということで、楽しいことをお願いしておきました。



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「運命を変える3つの言葉」より



ここのところ「人間いきいき通信」という天理教道友社から発行される月刊の小冊子にエッセイを3ヶ月ごとに執筆しています。
園の保護者の皆様にも配布しています。

今月9月号に掲載した内容を見たある年配の方が、こんなことを質問してきました。
「脳の手術をしたようだけど、状況は大変なことだったのではないですか?ずいぶんさらっと書いているけれど。まあ、それがあなたの人柄なんでしょうけど。」

「はい、周りの方々にはひととき大変ご心配をおかけしましたし、手術自体も名医に恵まれたことや、めずらしい助かりがありました。でも、そのことはこのテーマでは別の話になりますね」

人が病気や事故に遭うと、病気からどう回復したのか、どのような痛みや精神状態だったか、家族の気持ちなどを気にするものですね。
そのことを質問してきた方はそこに興味があった様子でした。
正直言うと、そこのところの詳細を書くと、その苦労話などがクローズアップされて、おばちゃんたちの井戸端会議の格好のネタとなるだけで、伝えたいことはそこじゃなーい!となるように思います。笑

私はその時の痛みや手術の体験より、「言葉が閉じ込められた」という言葉を伝えられない経験の方が私にはショックであり、手術の内容によっては言葉を失い、そうなったらどうなるかという想像の方が重要だったのです。

以来、脳についての書物もいろいろと読み、知れば知るほど、人間の体のしくみには設計図があり、時にその設計図から外れてしまうこともあり、人間の体は自分の思うようにならないものだなあ、魂の入れ物に過ぎないのだなあと思えるようになりました。

だから、体は神様からの借り物、心だけが自分のものだと言われる所以なのです。
神様から貸していただく体は、いろいろでこの体で経験し学ぶべきことがきっとそれぞれにあって、この体なのだと思います。

「自閉症の僕が跳びはねる理由」
という東田直樹さんの本を読みました。

自閉症については検索をかければわかると思いますが、実際自閉症を発症した重度の方は、コミュニケーションが難しいです。
言葉を伝えることができないことや、奇異に映る行動が多く、そもそも思考することができていないのではないかという姿です。

ところが、この東田さんの書籍には、奇異に映る行動や言葉のコミュニケーションが取れなくても、その内側には他の人と変わりない感情や深い思考があることが記されていました。

著書の一節にこうあります。
『筆談という方法から始めて、現在は文字盤やパソコンによるコミュニケーション方法を使って自分の思いを人に伝えられるようになりました。自分の気持ちを相手に伝えられるということは自分が人としてこの世界に存在していると自覚できることなのです』

人と面と向かうことから逃げてしまうな行動があるので、自閉症の方は、孤立したがっているように見えますが、孤立していることを決して好んでいるわけではなく、内面とは別に体が思うようにならないからであって、人間が自分自分の存在を自覚できるのは周りの人とのコミュニケーションなしにはないことを教えてくれています。

奇異に映る行動については、
『魂以外は、別の人間の体のように自分の思い通りにはならないのです。それは、みんなには想像できないほどの苦しみです。僕たちは見かけではわからないかも知れませんが、自分の体を自分のものだと自覚したことがありません』

突然脈略もなく発せられる言葉や叫び、飛び跳ねたり、モノを噛んだり、その行動と内面はバラバラで制御のできないものだというのです。

自閉症の方の姿が私たちに伝えてくることはまだまだあります。

とどのつまり、心や魂の存在のお話になっていくと思います。

入れ物がそれぞれ違っても、魂と魂の交流に出会えることはあります。
世の中で一番密接な関係、
特に母子の間には、その魂同士の出会いを経験する方は多いかも知れません。

喜びや幸せは自分の内側にあります。
他人に共感してもらわなくても十分幸せと感じることもあります。

私のエッセイのタイトルは、「しあわせデッサン」。
これは編集の方が用意してくれたもので、よくよく考えればテーマのなんと広く深いことかとも思います。
デッサンは、私が絵を描くことを知ってか知らずか縁あってつけられたタイトルです。
まあ、単純にしあわせと思うことをデッサンするように言葉で描写すればいいのかもしれません。

私は興味関心があっちこっちとしますので、この続きがいつになるかわかりませんが、言葉のコミュニケーションと魂については、続編が書けそうなので、いつか書いてみようと思います。








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